昭和四十五年二月十一日 夜の御理解


 人間の願いが成就するという事は、いわば、私共の願いが成就するという事は、私共の人間としての大きな人間にならない限り、願い通りのおかげにはならないとゆう事を、神様はどうして信心をさせたい、そしておかげをやりたい、けれどもその本当のおかげをやりたい為には、人間の小さい考えで願うた事が成就するとか、成就しないとかというような事で信心がぐらついてはならんぞ、本当の信心を頂かなければいけないぞと言うて、その事を分からして下さろう、その事を思い込ませて下ろうとする様々な働きが生き生きとした御比礼を頂いておる教会では、その点のところがはっきり教えられとるようですね。
 神様がいかにしてね、その人間の小さい私共が願う願いがね、成就しない事がおかげと分からせる。そして神様の本当に下さろうとするおかげを頂かせて下さろうとする為、神様が、もうあらゆる手を持って、いろいろ、その、おかげ、そこをまあ御取次を頂いて起きてきた事良い事悪い事みな良いと思い込ませようとなさる働きがね、生き生きとした御比礼を頂いておるところでは、それがはっきりしておるという事を感じますね、いつも。
 今朝からの朝の御祈念の後に啓介君、あの佐田さん所のね八才になります坊やですが、いろいろ、その、やっぱり子供ながらも一心にね、ああして一年何ヶ月か朝参りを続けているんですからねえ。やっぱ〔り〕神様が、その純粋さにおかげ下さるんでしょうが、いろいろとお知らせを下さるんですね。
 今朝から、その「僕がお夢を頂いたから」ち言うてから、「一人残って御届けをする」ち言うて、その、最後まで残っておるんです。そして、その御届けをする事がですね、『井上みつろう君ちゅうのが、あの井上さん所の息子の中学校に行きよる、「井上のお兄ちゃん、井上のお兄ちゃん」って言うて、まあ言ってる訳なんですけど、その井上のお兄ちゃんがね、その、こう一本の道を歩いて行きよる。そしてね、「試験にでけじゃったっちゃおかげよ」ち言うてから、なんべんも繰り返して言いよんなさる。そしたら、その佐田さん所の近所に飯田という雑貨屋さんがあるらしい。雑貨屋さんの方に続く所の道の方へ、親先生と思いよったら神様じゃたち、こういう訳なんですよ。
 神様かどうか分からんけれど、まあ神様やら親先生やら分からん人が、飯田という食料品やら雑貨やら売っているお店の道を辿って向こうに行きよんなさるところをお夢に頂いた。後ろから井上のお兄ちゃんが、「試験にでけじゃったっちゃおかげよ」と言うて、繰り返して言いよんなさるところであったと、こう言うのですね。
 ですから、例えば、試験のお願いをさせてもろうた、でけなかったと、ね。それも、それもでない、「それは実はおかげだ」と言うて、そのみつろうさんが言っておる。そして、先生とも親先生とも分からない、神様とも親先生とも分からない人が、飯田さんの方へ行っておるという事はね、飯田という事は、いわゆるめしの田と書いてありますから、いわゆる神様がままになる方へ一歩一歩近づきよんなさるという事だという事だ。
 あの、「啓介君、素晴らしい事を頂いたね」と言うて、私は、噛んで含めるようにです、啓介君にお話させて頂きよったら、後ろの方に、先日ね、神愛の女学校ですかね、神愛学園ですか、あちらに受けたけれども出来なかったという人のお母さんが、その、まあ、お願い<など>お礼<など>御届けに出てみえておるところだった。
 だから、啓介君が一生懸命頂きよる御理解を後ろで、「はあ」って、こうやって頂きよんなさるとですよね。「本当に、今のお話を頂いて、娘が神愛にできじゃった。お願いまでして頂いて、本当に親先生に御修行まで、御修行かけてお願いして頂いてでけなかったんだから、おかげと思います」と。
 もう、なんと言うですかね、あるその大変神愛学園に懇意の人がおられるところに沢山の商品券を、デパ-トの商品券を買うて来て、それを持って尋ねに行こうという前に、ここにお願いに来る事を思うて、神様にお願いをするんなら、こんなもんないらんと思うて、神様に、昨日、月次祭にお供えさせて頂いたと言われるです。私は知らなかったです、そげな事。
 ところが、月次祭にお供えしたとなら、箱にお供えしちょらないけん。なんじゃかんじゃ分からんなら、食堂に行きましたら、食堂に、こっち置いてありますもん。開けてみたら、沢山の商品券が入っとる訳です。「こりゃ、あんた、現金と同じじゃが」と言うて、それが、お供えしてあったらしいんです、ね。
 例えば、ほんなら、ひょっとしてです、例えば、それを、ほんならして心やすい人に、まあ、お願いをしてから、神愛に通っとったとしますか、そしたら結局、神様が飯田の方へおいでるのではなくてです、<飯田>ではない方へ行く事になるかもしれない。そういう意味合がですね、啓介君が頂いとる、その御理解を後ろで頂いておって分からして頂いたと、こう言うのである。
 はあ、本当に神様の御都合、本当のおかげというのは、どこにあるか実際は分かりません。けれども、御取次を頂いて起きてくる事はです、良い事悪い事みな良いと頂けれる信心。それを分からせて下さろうとする為に、神様はあらゆる手を持って、あらゆる人の上に様々な働きを下さって、なら、啓介君に教えて下さっておる訳です。その啓介君が、残って御届けをしておるところへ、その神愛にすべった人のお母さんがお礼御届けに来ておるという事。それを分からせようとする働きがね、実にその微妙にあっておる事が分かるでしょうが。
 ですから、神様が、<本当に>そこんところをです、様々な形の上で分かってくれよ、分かってくれよと言うておられる、そこんところを分かっていく事が、だから信心だという事になるですよね。どうぞ。